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麩屋がない麩屋町と白山信仰

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京の街を南北に走る道の一つに、御幸町通と富小路通に挟まれた麩屋町通-丸太町通~五条通間-があります。
http://www.mutsunohana.net/miyako/oji-koji/tomino-koji.htm?01keepThis=true&TB_iframe=true&height=400&width=800
元来は平安京の左京を南北に走る“富小路”でしたが、天正十八(1590)年の豊臣秀吉による京都大改造の際に、西側に新たに開通した道にその名を譲り、押小路と三条坊門小路-現在の御池通-の間に所在する白山神社にちなみ、“白山通”と呼ばれるようになりました。

さて、“麩屋町”の名の由来については、貞享ニ(1685)年刊行の『京羽二重』に、「白山通:昔日此筋尓(豆?)腐麩を賣る者多かりし故尓今にふや町と云」と記されますが、同書の別の記載からは、当時既にこの道筋に麩屋が存在しなかったことが知れ、それから約80年後の宝暦十二(1762)年刊行の『京町鑑』には、「麩屋町通:白山通トモ云-此通むかしハ麩商賣の者多くありし故町筋の號と須-今も三条角尓麩屋あり」と僅かに一軒の麩屋の存在が記されるなど、通り名がなかなか一定しなかった様子が窺えます。

ちなみに上掲の図は、宝永五(1708)年成立の『都すゞめ案内者』に掲載された、寺町通と白山通の図で、寺町通には経本屋の店頭が、白山通の“ふ屋”の部分には、店頭での「生取り(グルテン成分抽出)」作業と製品販売の様子が描かれています。

ここで注目されるのは、麩屋町通に麩屋が軒を連ねていたのは、『京羽二重』や『京町鑑』といった地誌類が執筆された時点で、既に“昔日”もしくは“むかし”の話であったという記述です。現在では丸太町から五条に至る麩屋町通には、一軒の麩屋もありません。

では、この道筋の通り名になるくらいに麩屋が集中する状況が、何故起こったのでしょうか?

実は、もう一つの通り名の由来となった白山神社に、その謎を解く鍵があるようです。

この神社が創建された由来や来歴については下記に詳しく説明されています。
http://everkyoto.web.fc2.com/report1085.html
http://www.shirayama.or.jp/hakusan/yashiro/y105.html
社伝による創建年代とされる治承元(1177)年頃といえば、様々な職能集団が“供御人”として編成される時期にあたります。それらの技能集団が各々の職能神の許に紐帯を強化した時代背景も鑑みれば、この白山神社も、何らかの職能集団の崇敬社として分祀されたように思えるのです。

さて、その白山信仰の担い手となるのは、白山神社の主祭神である菊理媛(ククリヒメ)命の神名が、「ククル→泳(くぐ)る→浸染」や「ククル→括る→纐纈染」、あるいは「菊→菊綴」など、古来の染色技術と関連付けられることから、染色技能集団であった可能性が高いと考えます。

平安期以来、道沿いに“富小路川”という川筋が流れ、豊富な地下水源にも恵まれたこの道筋は、水を大量に使用する染色業者が集住するのに恰好の地であった上、染色の必需品である澱粉糊-小麦粉からグルテンを抽出した残り-を生産する工程で水を多用する麩屋にとっても、営業に好適な土地柄であったと思われます。

平安後期以降に染色業者がその職能神を奉じて集住した道筋に、その需要に対応する麩屋-糊屋と兼業-が、食材としての麩(麪筋)が普及し始める織豊時代頃-16世紀後半-に集まって来たと考えられますが、後に何らかの事情で染色業者と一緒に他所へ移転し、その名のみが通り名に残った時期に上記の地誌類が著されたのではないかと考えます。

その移転の理由については、下記のような事情が想定されます。
①染洗いや麪筋(グルテン)抽出に伴う工業排水問題
②川筋の変更や埋立て
③地下水源の枯渇
③については、鴨川水系の伏流水域でもあり、現在も地下水を汲み上げて使用している業者が存在する以上、可能性は低そうです。
②については、川筋の消失年代を確かめ得る資料が余りにも乏しく、現段階では保留します。
①については、堀川通の例ではありますが、江戸時代には二条城以北での友禅流しが、城の前の堀川を汚水が流れるという理由で禁止されていたこと、麩屋町通近辺が洛中の人家密集地であったことに加え、職能集団の後ろ盾となっていた権門が勢力を失った社会情勢などから、現時点では最も可能性が高いように思えます。

ちなみに、私見によれば、染色業者と麩屋の移転地は、水源豊富で当時は人家もさして多くはなかった三条堀川以西、とりわけ四条大宮から壬生郷近辺ではなかったかと思います。明治時代の資料ではこの地域に麩屋や染色業が多く見られること、筆者の幼時の頃でも、友禅などの京染を営む家が当該区域内に多かった記憶などからも、そのように考え得るわけです。
by KYO-FU-TA | 2014-09-25 10:41 | 歴史と由緒

創業二百有余年。京麩の老舗、「麩太」当主、八代 青木太兵衛による「麩」を巡る徒然随想。http://futa.co.jp/


by KYO-FU-TA